バレエな歴史

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太古の昔~

太古の昔
 
 人類創生期には、天候の異変は神の怒りとみていて、狩りや漁の豊漁、豊作や健康、雨乞いなどを、太古の神々にお祈りしていました。そんな儀式の一環として踊りがあり、やがては舞踏へと発展してゆきます。
15世紀
イタリアの宮廷でバレエ誕生

ルネッサンス期、古代ギリシャ・ローマの文芸復興時代の宮廷で、バレエは誕生しました。
主に王侯貴族の結婚の儀式に上演されていましたが、舞踏だけでなく朗読や劇、楽器演奏なども一緒でした。

『舞踏術と振付法について』ドメニコ・ダ・ピアチェンツァ

『舞踏芸術論』ギュリエルモ・エブレオ
バース・ダンスやバリー(ゆっくりしたテンポの優雅な宮廷舞踊)について述べ、後にballetとなる語源のballettoが登場

1490
年『楽園』上演 衣裳・装置:レオナルド・ダ・ヴィンチ
王侯の結婚式の際上演
16世紀
イタリアからフランス宮廷バレエへ

イタリアメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシス、フランスのアンリ2世に嫁ぐ
カトリーヌ嬢「フランスは遅れているわ」と、故郷イタリアから振付師ボージョワイユを呼び寄せます。

1573
年『ポーランド使節に捧げられたバレエ』ボージョワイユ
一周,方向変更,迂回,組合せ,混合,接合,休止から作られていた。バレエの図形化の発展段階です。

1581
年『王妃のバレエ・コミック』ボージョワイユ振付魔女シルセとニンフたちの話で、プティ・ブルボン宮で夜10時から朝の4時頃まで演じられました。
演劇と、ダンス・オリゾンタル(水平舞踏)と呼ばれる舞踏で、踊り手全員でみごとな幾何学模様を描き、バルコニーや高座から見おろす観客を魅了しました。
また、並置式装置といって、必要場面の装置をあらかじめ横に並列しておき、芝居の進行に連れてその場面へ移動してゆく演出でした。
17世紀
宮廷バレエ~劇場舞踏へ

1589
年~1610年の間にフランスは八百以上のバレエを生み出しました。
踊り手は、ルイ13世はじめ少数の特権階級だけのものでした。
現在の幕は開幕の時は下から上がりますが、当時は上から下へ落とされていました。

英国では、仮面劇(マスク)で舞踏が登場していました。

1653
年『夜』クレモン制作でルイ14世は、太陽アポロンの主役を演じる。
ルイ14世は当時15歳。バレエ大好き王はアポロンがお気に入り、他にも様々な役を進んで演じました。

1661
年王立舞踏アカデミー創立
ルイ14世は、舞踏の専門家を庇護し、舞踏発展に導く基礎を築きました。

1661
年『うるさがた』モリエール台本,リュリ音楽,ボーシャン振付 初のコメディ・バレエ

1670
年『王のディベルティスマン』でルイ1432歳はバレエを引退。
王の引退とともに宮廷バレエも衰退してゆき,オペラの時期と成ります。

1671
年音楽舞踏の悲劇『プシュケ』音楽:リュリ,振付:ボーシャン
パリ中の人をチュイルリー宮に惹きつけた劇場舞踏。早変わり装置,機械仕掛け,幕間狂言などのスペクタクル。

1681
年『愛の勝利』リュリ作曲
バレエに初めて女性舞踏家ラ・フォンティーヌなど4名が登場します。
18世紀
舞踏学校、職業舞踏家が続々登場

1700
年『舞踏術,または記号,,指示符合による舞踏記述法』フィエ著(仏)
ボーシャンによる基本の5つのポジション,アンドゥオール(脚を完全に外側に開く、バレエの全ての技法)の上に築かれるというバレエの初の文法書

イタリア式舞台の到来
額縁式舞台がフランスにも到来し、これまで三方や上から見おろしていた舞踏は正面から観るようになります。演出も当然変わってきます。コールドから抜け出てソリストは、観衆に対して平行にあるいは垂直な動きをするように変わってきます。劇的なものから異国的、情緒的な場面が好まれるようになります。

1713
年パリオペラ座舞踏学校開設

マリ・カマルゴvsマリ・サレの2大女性スターがオペラ座に登場。
カマルゴ=速さ,快活さが特徴。初めてスカートを短くしアントルシャ・カトルをし、当時ひんしゅくを買うほど大胆なスター
サレ=優雅な表現力,品行方正な趣き。相反する特徴で当時の人気を二分しました。

1738
年ロシアペテルブルグに帝室バレエ学校創立

1760
年ノヴェール『舞踏とバレエについての手紙』(仏)出版
バレエ・ダクシオン=動き,音楽,装置,衣裳など全ての構成要素をもって、一貫した主題を表現するバレエを提案
これはひじょうな名著で、歌や劇の一部であったバレエを独立させ、今日の発展に至らしめ、世界中で翻訳されています。

1789
年『ラ・フィーユ・マル・ガルテ』ドーベルヴァル振付

1796
年『フロールとゼフィール』ディドロ振付(英)
ワイヤーで宙吊りの夢幻効果。ロマンティック・バレエへの幕開けです。
女性舞踏家は、かかとの高い靴を脱ぎ、柔軟な舞踏靴になり、ドゥミポアントからポアント技術習得へと・・・


19世紀以降~

19世紀
前半ロマンティック・バレエ,後半クラシック・バレエ

パリ・オペラ座は、地の精,水の精,エルフ,魔女ペリなど数々のバレエな妖精たちであふれます。
超自然界的幻想的なロマンティック・バレエでは、薄い釣鐘方のスカートで、花の冠をつけます。
舞台は暗い森や月光の谷間などに変わりゆくのです。

1800
年頃「舞踏劇」(コレオドラム)を数多く振付るサルヴァトーレ・ヴィガーノ(伊)
ハイドン,モーツァルト,ベートーベン,ロッシーニなどの音楽の断片を使いました。

1810
年頃ポアント技法発生
宙吊りで飛ぶ時や着地の時、あるいはピルエットの回転の際のつま先立ちから、ポアント技法へと繋がってゆきます。
舞台でのポアント技法でマリー・タリオーニはあまりにも有名ですが、本当は誰が一番にポアントを発明して踊ったのか、永遠の謎に包まれています。

1827
年マリー・タリオーニがオペラ座デビュー
1830
年ジュール・ペローがオペラ座デビュー
1832
年『ラ・シルフィード』(仏)フィリップ・タリオーニ振付 マリー・タリオーニ主演
1836
年ファニー・エルスラーがオペラ座デビュー
マリー・タリオーニ(18041884VSファニー・エルスラー(18101884
「ラ・シルフィード」は、ロマンティック・バレエの代表作。イタリアの振付家とスウェーデン女性との間に生まれたタリオーニは、アダジオに卓越し、空気のように軽々として妖精のように魅力的でした。
オーストリアのエルスラーは、敏捷で官能的情熱的で力強く、相反する魅力で、アメリカでも超人気となります。
1841年『ジゼル』(仏)ゴーチェ台本,アドルフ・アダン音楽,ジャン・コラリとジュール・ペロー振付
カルロッタ・グリジ(伊)のためにゴーチェが書きました。
他にもファニー・チェリトや、ブロンドのデンマーク人リュシル・グラーンなど、傑出したバレリーナたちがたくさん登場しました。
数少ない男性ダンサーではジュール・ペローがいました。彼はカルロッタ・グリジに夢中で、彼女のために様々な小品を作りました。『オンディーヌ』『エスメラルダ』『妖精たちの名付け子』

1845
年『パ・ド・カトル』(英)ジュール・ペロー振付
タリオーニ、チェリト、グリジ、グラーンの4大豪華バレリーナの出演を実現
パリ・オペラ座のスター達はロンドンキングス劇場でも喝采を受けるのが慣例でした。
プライドの高い彼女達をレッスンさせたり、登場の順番で悩ませたり、たいへんだったようです。

デンマークの振付師オーギュスト・ブルノンヴィルは、数多くのディベルティスマンを作りました。
幻想的な世界よりも、異国情緒的なものでした。『ナポリ』『闘牛士』『舞踏学校』
また、女性舞踏家ばかり日の当たる時代にも、男性舞踏家を主役に試みたりしました。

1830
1860年頃の魅惑的なバレリーナによって、男性舞踏家が日陰に追いやられ有能ダンサーも舞台を去ってゆき、もはや新しさのないバレエに観衆は飽き始め、ロマンティック・バレエは衰退していきます。

1870
年『コッペリア(またはエナメルの眼の娘)』ホフマン原作,レオ・ドリーブ音楽,サン=レオン振付
サン=レオン最後の、そして最も有名な作品。この頃がロマンティック・バレエ最後の作品といわれます。

イタリアで誕生し、宮廷バレエから劇場バレエへと、フランスで大きく花開いたバレエですが、次第に下降線をたどり、舞踏はもはや常連の興味しかそそらず、女性の姿態を誇示した媚びを売るようなものにまでなりさがり、芸術は消滅してしまったかのようでした。フランスの伝統はパリで失われたかに見えました。
しかし!バレエは、再び芸術として、ロシアにおいて、不死鳥のごとく生まれ変わります。

マリウス・プティパ(18191910フランス人)は、ロシアで現代バレエの創始者となる天才振付家。
当時ロシアでは、他のヨーロッパとは違い、多額の資金が、オペラと同じくバレエにも、振り当てられていました。
帝室バレエ学校のメートル・ド・バレエ(振付指導兼責任者)であるプティパは、『ラ・シルフィード』『ジゼル』『エスメラルダ』など、過去のロマンティック・バレエの傑作を、改良し再演しました。また、チャイコフスキーと協力して、バレエ史上最も有名な3つの傑作を生み出します。コールド・バレエとソリストを的確に使うクラシック様式を確立し、テクニックを見せるため、脚を見せる短いスカートのクラシック・チュチュを使用しました。

1890
年『眠れる森の美女』プティパ振付
クラシック・バレエ期の最も豪華な代表作。プティパの娘マリ等出演
エンリコ・チェケッティ(伊)は「青い鳥」で素晴らしい跳躍をみせ男性舞踏家の価値を回復。
1892
年『くるみ割り人形』プティパ,途中でレフ・イワノフ振付
カラクテール(性格舞踏)のヴァリアシオンに優れる
1895
年『白鳥の湖』(初演は1877年)プティパとイワノフ振付
初演は失敗気味。再演では、ピエリ-ナ・レニャーニは白鳥姫と黒鳥娘の二役を演じ、32回フェッテをやり遂げます。

やがて、ロシアに新しいバレエ思想が生まれ,ディアギレフ率いる史上最強バレエ団が西欧に大旋風を!


20世紀

1905
年頃イサドラ・ダンカンがロシアで公演。
あらゆる規制から開放され、窮屈なシューズや衣裳は脱ぎ捨て、ギリシャ・ローマ風のゆるやかなコスチュームで踊る、はだしの革命家、モダンの創始者ダンカンに、ミハイル・フォーキンは影響を受けます。

1905
年『瀕死の白鳥』ミハイル・フォーキン振付
アンナ・パブロワは、この作品を生涯踊り続け、彼女以上の踊り手は出現していないといわれている作品です。
1909
年『エジプトの夜』ミハイル・フォーキン(露)
フォーキンは『ショパニアーナ』(レ・シルフィード)で説明や筋書きの要らないバレエを創作し、『エジプトの夜』では、独創性、創造的な情熱を示しました。

バレエ・リュス(1909年~1929年)
20
世紀初頭の芸術家・著名人の大半がたむろした史上最強の芸術集団
その興行師(プロデューサー)であるディアギレフが1929年に亡くなったとき、20年間の偉業の後に彼の残したものはカフス・ボタン1個と莫大な借財でした。しかし、彼の事業は世界中の模範となり、彼によって発見された数多くのバレエ舞踏家たちによって、バレエが世界に広められることとなり、その功績は決して忘れ去られるものではなく、現在もバレエ発展へと導いてくれているのです。
1909
年バレエ・リュス、パリにて大旋風を巻き起こす。
子供向けの幻想劇が上演されるシャトレー座において、セルゲイ・ディアギレフ率いるバレエ・リュスの公演は、色彩と形態、動くハーモニーの渦にパリ中の人を巻き込みました。
『イーゴリ公』フォーキン振付、ボロティン音楽、ブノワ装置・衣裳、アドルフ・ボルム主演
振付、音楽、装置、衣裳、舞踏手の間の一致と、男性的なコール・ド・バレエに人々をあっといわせた作品。

バレエ・リュスにおいては、台本、衣裳、装置、音楽、振付を、それぞれ超一流の芸術家達が担当し、一体となってバレエ芸術を創りあげました。シャネルもバレエ衣裳を担当したことがあります。


20世紀初頭 主にバレエ・リュスの衣裳(by Dover publication , TOM TIERNEY)
 アメリカで買った子供の着せ替え人形の絵本からです。パブロワやニジンスキー,カルサヴィナ,マシーンなど有名ダンサーの名前と作品名がちゃんと付いてて、衣裳を替えて遊べます。さすが欧米では、小さい頃からバレエが身近にあるのだと感心しました。


1914年 アンナ・パブロワ    1910年 アルミードの館     1911年 ニジンスキー
瀕死の白鳥                             薔薇の精
              衣裳:アレクサンドル・ブノワ     衣裳:レオン・バクスト
                


参考文献
『バレエなるほどおもしろ読本』小倉重夫編 東京音楽社
1985
『バレエの歴史』マリ=フランソワーズ・クリストゥ 白水社文庫クセジュ
『バレエの魔力』鈴木晶著 講談社現代新書
衣裳画像:バレエリュスの着せ替え人形絵本よりOrifiinal Dover(1986)publication by Tom Tierney